【MAU】歴史学【課題2】

MAU通信 -歴史学

歴史学 第2課題

「 自分と関係がある地域(現住所や出身地の都道府県・市町村区)の歴史をまとめよ。 」

レポートの参考にどうぞ。
全体的・部分的問わず、剽盗・転載はご遠慮ください。

テーマ「江戸川区の歴史」

 今レポートでは古代から現代までの江戸川区の歴史についてまとめる。

第1章「古代・江戸川区の始まり」
 江戸川区は縄文時代には海の中であった。約3000年前頃から寒冷化により海は徐々に後退し、陸地化が進んだ。北小岩6・7丁目付近にある「上小岩遺跡」の発掘調査によって、ここに弥生時代後期頃から人が住み始めたことが分かっている。古墳時代には農業や漁業が行われた。奈良の東大寺正倉院に残っている「下総国葛飾郡大嶋郷の養老5年の戸籍」から、現在の江戸川区は古代には大和朝廷の中央集権的法令制の下で下総国葛飾郡に属し、支配されていたことが分かった。甲和里、仲村里、嶋俣里の三つの里があったことが記録されており、甲和里(小岩付近だと考えられている)には454人の住む村があったとされている。

第2章「中世・武士の時代と江戸川区」
 中世になると、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて武士が台頭するようになる。江戸川区の地域は葛西氏が治め、下総国葛西郡葛西領の管轄となった。葛西氏は葛西33郷を伊勢神宮に寄進する「葛西御厨」を行ったことで知られる。御厨の記録には小岩や篠崎など区内の地名が18個登場している。篠崎の地域は葛西氏の領する葛西御厨の中心地として栄え、また今井(現在の江戸川区瑞江付近)・長島(同東葛西)は太日川河口の湊として賑わった。16世紀になるとこの地は小田原の北条氏が支配した。江戸衆と呼ばれる江戸城代遠山氏を中心とした家臣団の支配下に入り、区内の一部が太田氏や富永氏らの領地となった。人口が増え耕地も広がっていった。篠崎街道は岩槻道と呼ばれており、行徳塩田の塩を岩槻城まで運ぶ重要なルートだったという。室町時代の末、関東では上杉、北条、里見、太田といった有力な武士達が対抗して、しばしば戦乱に見舞われた。江戸川区は北条氏対里見氏の「国府台合戦」の戦場となった。苦戦の末北条氏は里見氏を破り、関東は北条の勢力下となった。その後北条氏の支配は1590年の豊臣秀吉による小田原攻めまで続くことになる。

第3章「近世・江戸時代と江戸川区」
 江戸時代、徳川家康が江戸に入府すると、区内の殆どは幕府の直轄領となった。城下町作りが始まり新田開発が盛んに行われた。江戸川区では宇喜新田を開拓した宇田川喜兵衛、一之江新田の田島図書、伊豫新田の篠原伊豫の三人がよく知られている。江戸川区は江戸への野菜の供給地として栄え、舟運が多く行われた。銚子から利根川を遡り、関宿を経て江戸川を下り、新川、小名木川を通って江戸城下へ運ばれた。また、江戸川区には元佐倉道・岩槻道・行徳道が通っていたため、街道は旅人で賑わった。しかし土地が低く、河川に囲まれた江戸川区の村々は度々洪水に襲われ、その上、土地が平坦で用水路も水源から遠いため、長い間雨の降らない時は水不足に悩まされるなど自然災害に苦労した歴史がある。江戸川区の特産物である「江戸風鈴」が発祥したのは江戸時代末期であるとされている。

第4章「近代・明治維新後の江戸川区」
 大政奉還後、1868年に江戸は東京と改称され、廃藩置県により葛飾郡の現江戸川区範囲も改めて東京府に編入となった。明治22年に市制・町村制が実施されると、江戸川区域の村々も大規模な統合が行われ、松江村、船堀村、葛西村、瑞穂村、一之江村、平井村、小松川村、鹿本村、篠崎村、小岩村の10村が誕生した。1932年10月に南葛飾郡の3町4村が合併し、「江戸川区」が誕生した。「江戸川区」の名称の由来は、区の東側を南北に流れる江戸川にちなむ。この時の人口は約10万人である。江戸川区の村々は明治以降も米を第一とする農村であったが、大正に入ると米作りが減り始め、次第に蓮根作りが増え、畑では野菜や花の栽培も盛んになった。1894年には市川から錦糸町を結ぶ総武線が開通した。太平洋戦争がはじまると、都内の小学校3年生以上の学童は集団疎開をした。江戸川区の学童は主に山梨県に疎開し、寺社や旅館で学習・生活訓練をした。東京大空襲では江戸川区も平井・小松川地区一帯が火の海になり、死者約800名、負傷者約5800名、全焼家屋約1万1000戸、罹災者は約4万人にのぼった。

第5章「現代・江戸川区の戦後」
 江戸川区は終戦からおよそ半世紀の間に農民社会から大都市への変貌を遂げた。都市基盤が整備され文化的な街並みになり、区民の自治活動が盛んに行われるようになった。1952年には東京都で最初のトロリーバスが上野公園に向けて今井を出発し、1968年には都営新宿線の開通が計画された。環境汚染が深刻になった昭和30年代には、都内の河川が埋められて道路に様変わりしていく中、江戸川区は「河川整備計画」を策定し、世界初の「親水公園」を作った。篠崎地域は2000年代以降、地区を再開発する計画を立てた。平成20年、駅と一体化した商業施設やタワーマンション、駅前広場や図書館などを併設した篠崎ツインプレイスが完成した。定期借地権や特別目的会社を活用した事業の評価は高く、土地活用モデル大賞の国土交通大臣賞や東京都建設技術協会の都建賞を受賞した。

参考

  • 文献「概説 江戸川区の歴史」木村秋夫 郷土歴史同好会 2010年
  • HP「江戸川区ホームページ」http://www.city.edogawa.tokyo.jp/
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